「小6と中3の学力スコア低下、識者『深刻な結果』 国の経年変化分析」
朝日新聞 2025年7月31日
子どもの学力の変化をみる国の「経年変化分析調査」(2024年度)の結果が31日、公表された。前回(2021年度)より全教科で成績が下がった。
文部科学省は「継続的な分析が必要」と慎重だが、下げ幅が大きく、識者や省内に「深刻な結果」との認識も広がる。
ある文科省幹部は「こんなに有意に下がったことはない。深刻だ」と明かす。
https://www.asahi.com/articles/AST700TFKT70UTIL016M.html?iref=comtop_7_01
コロナ禍が関係あるという意見もありますが、その後の学年も学力が下がり続けているので、それは当てはまらないでしょう。
この10年間私は算数の学力低下を訴えてきました。ですが、悲しいことに現実はどんどん厳しくなっていっています。
私が主張している仮説で正しいはずです。
元凶はデジタル(プリント)学習と英語教育(国語教育)と行き過ぎた早期教育です。それと学校の塾化(学習指導要領が守られていない)デジタル化です。
デジタル学習は、小学1年生からタブレットを配布して、デジタル教科書も正式な教科書としていくのだそうです。
また、英語も小学3年生から正式に授業が組まれていて、私立小では、5,6年生にもなれば、やれ英検2級だ準1級だと大騒ぎしています。
乳児の頃から英語学習をはじめているご家庭もあります。その影響でしょうか?日常会話もままならないということで授業に支障をきたしています。
英語ができるようになれば素晴らしいのですが、小学過程では「1に国語2に国語3,4がなくて5に算数」とお茶の水女子大の藤原正彦先生はおっしゃっておられます。
なぜならば、大谷翔平選手のように二刀流になれれば素敵なのですが、誰でもバイリンガルになれないため、日本語も英語も日常会話レベルしかできなくなることがよくあるのだそうです。本当のバイリンガルはギフテッドの%と同程度だと専門家の方は警鐘を鳴らしています。
国語ですが、大正時代からくらべると国語の週あたりの授業時間数は、
14,5時間→4,5時間と激減しています。※「国家の品格」藤原正彦先生
早期教育ですが、ルソーは一方で、「発達段階を考慮した適切な時期に適切な学習をすることの大切さ」を言い出した画期的な思想家でもあります。
教育書『エミール』(1762年)は、それまでの“型にはめる教育”に異を唱え、子どもの発達段階に応じた自然な学びを提唱し、「子どもは小さな大人ではない」という発想は、それまでなかった画期的なものでした。
私がいつも言っていることです。早期教育は昔からあったのですね。どんどん過激になっていくのはいつの時代も同じなのでしょう。
昨今は習い事も豊富なため、小学校のあの薄い教科書をじっくり学ぶことが大人には馬鹿らしく見えるようです。自分も小学生であったことはみな忘れます。ですから、いろんな教育産業が魅力的に見えて、地道にコツコツと基礎基本を積み上げて概念形成することが馬鹿らしく思えるのですが、小学1年生の算数は深い、どこまでも深いと言っておきます。そんなに簡単なものではないです。
学校の先生達も完全にやる気を失っていて概念形成をやりません。
「もうどうぞ好きにやってください」と言わんばかりです。
私は「どうぞ学習指導要領通りに授業なさってください。自信を持ってください。世界に誇れる学習カリキュラムです。」と申し上げたい。
学習は、「精読・反復・要点暗記」が大方針であって、まずじっくり考えるのです。じっくり取り組むのです。話はそれからです。ですから、学校の学習は基本中の基本であって、学校が塾になってプリントばかりやる必要はないし、逆に話し合ってばかりでも意味がありません。
「ビルの上から大きい重りと小さい重りを落としたらどちらが先に地面に着くか?」と延々と討論しても時間がもったいないだけです。
「ピサの斜塔」から実験したガリレオ・ガリレイという人がいて「空気抵抗が同じであれば同時に落ちる」が結論です。
もちろん、事前に話し合ってから実験して確かめるということは、仮説検証としてよい学習になることでしょう。
ですが、「子どもの中にすでに答えがある」とかわけのわからないことを言って話し合ってばかりなのは、かなりおかしいと思います。
学校が崩れたら塾も一緒に地盤沈下します。そして、国際競争力までもが落ちました。ゆとり教育で実証済みです。
その学校での基礎基本(概念形成)が出来ていないところに塾での学習を積み上げるとどうなうかわかりますでしょうか?
意味がわからないことを積み上げられたら、そのうちどうなるかというと勉強嫌いになって見向きもしなくなります。または、無理にやらせようとすると大暴れするようになって手がつけられなくなります。
また、我慢強い子であれば頑張るでしょうけれども、そのうち「学力崩壊」を起こします。そして、やってもやっても成績が上がらなくなります。
さらに我慢強くて合格まで勝ち取って志望校に進学する子たちもいることでしょう。ですが、そのあとで燃え尽き症候群となって無気力となってしまいます。
これは、「学びとは何か」「学力喪失」といった著書で知られる今井むつみ先生もおっしゃっておられます。
「学力喪失」に次のようにあります。
小学校で習得することになっている基本的な概念について誤った認識をもったまま中学生になってしまった子どもは、果たして中学校での学びについていけるのだろうか?中学に入れば小学校で学習したはずの基本概念はリカバリーでき、小学校で習った問題なら解けるようになるのだろうか?残念ながら多くの子どもたちは、リカバーできていない。小学校で習得することになっていた基礎的な概念が理解できていない状態で、授業はどんどん進んでしまい、「学習性無力感」をいだくようになってしまっている。学習性無力感というのは、心理学の用語で、学習者が、いくら学習を続けても自分はわかるようにはならない、学習しても時間の無駄だ、と思ってしまうことである。(引用おわり)
なにも、中学生だけの話ではなくて、小学校で「概念形成」する授業を軽んじる昨今では、小学校の高学年でも同様の現象が見られます。低学年算数で躓いているから、計算は出来ても「たし算」「ひき算」「かけ算」「わり算」の意味がわからないから、高学年の内容が理解できなくなっているのです。
こうしたことを踏まえて指導している塾がどれだけありますでしょうか?子どもたちのこうした小学校内容が抜け落ちていることを踏まえるどころか、どんどん難しい問題を大量に解かせるだけということがエスカレートしていっています。
国語と算数が壊滅的です。
算数の概念理解はもとより、さらには算数の1行題の題意を読み取る国語力がなくなってきているのです。学年相応の国語力の喪失です。
最近授業の合間に小話をしても、それを理解して聞けるバックボーンを持ち合わせていない小学生が多く、何も知らないから話が通じなくなってきています。
ユーモアで話をしても、それがユーモアだと語彙力や知っていることが少なすぎてわからないということも起きています。
この「経年変化分析調査」の中で英語が下がっているのが意外に思われるかも知れませんが、日本語に訳してもその日本語がわからないのだから英語が下がるのです。母語がダメなのです。英語ばかりやっても英語力は上がりません。国語力がないと共倒れなのです。学年相応の国語力が必要なのです。日常会話を話せたらOKではありません。国語の限界が英語の限界となる日がくるのです。
その日常会話さえもできない小学生がいます。それは、コロナ禍でお友達と話してはいけないということもあったでしょう?
しかし、あまりにも日常生活での語彙力がなさすぎて、いったい普段会話というものをしているのだろうか?と心配になります。
灰色という色が言えなかったり、場所を指す言葉「上下左右」「右上右下左上左下」を言えなかったり、「大小」というワードがパッと出てこないなどです。
算数なのに、算数の範囲の言葉であるのにもかかわらず国語で躓いているケースが増えてきています。
ここで大切な視点が1つ抜けています。Google効果です。
子どもたち、いえ大人であってもGoogleになんでもある、デジタルデバイスになんでもあると思えば記憶しなくなるのです。
この論点を忘れてはいけません。
子どもたち自身も携帯という小さなデジタルデバイスを持っているわけですから、教科書は、すべて持ち運べないですが、携帯はいつも一緒です。
となると覚える必要性を感じなくなれば覚えなくなります。
ですから、物事の判断がつかないうちは、デジタルデバイス禁止は仕方ないように思います。酒と煙草も禁止ですね。
ビル・ゲイツもスティーブ・ジョブズも我が子にはデジタルデバイスの使用を14歳まで禁止にし、その後も厳しい条件付きでの使用としていることがすべてを物語っています。
ビル・ゲイツはわが子に、「本を読め」「本を読め」とうるさいそうです。
「貧困の脱出切符」は、いまも理数教科であって英語ではないのです。
昔よりこれだけ英語教育が盛んになって、英検,TOEIC,TOEFLがあたり前の昨今、日本のGDPは落ち続けているのではないですか?中国にはとうの昔に抜き去られ、いまやドイツにもインドにも抜かれて現在8位です。
現在、英語教育熱が異常なまでになっていますが、日本の国際競争力は下がる一方です。ファクトとして出ています。
理数科目を一生懸命頑張るように国は舵を切らないと、このまま貧困一直線です。
資源のない日本は技術立国するしかなかったのではないでしょうか?
理数科目、いえ国語まで深刻な学力低下が今後も続けば、2050年にメキシコにGDPを追い越されるという予測がありましたが、その通りになることでしょう。
私は、学力は国際競争力を支えるものであって、国家百年の計であると訴えたい。
私と似たようなことを言っている塾もあったかも知れませんが、ペーパートレーニングで目先の得点を取ることに汲々としてきていて、塾間の競争でやらせる勉強はどんどん難化の一途を辿ってきました。小学生の学力が下がっているのにです。
英語ができて話せるようになっても、中身が詰まっていなければ話す内容がないため、会話出来ないのではないでしょか?
コンピューターがあってもソフトが無ければただの箱です。
英語が話せても話すべき内容がなければ、なんら会話が成立しないのです。
英語がしゃべれたら国際化出来ると思っていますが、中身もなく話すこともなく自己主張をはっきりとできなければ、戦前と同じことを繰り返すことになりませんか?
日本では、先祖崇拝とアニミズムが仏教と一体となって天台本覚思想となり、死ねば誰でも簡単に仏になれるという「成仏のインスタント化」という日本的仏教の変容を遂げましたが、明治維新の廃仏毀釈で仏教が廃れました。結果として、先祖崇拝とアニミズムだけが表立つこととなり(明治政府により日本神道は文化と政府解釈して運用)、世界から誤解されたのです。聖典・経典のない宗教を信じていると、欧米からは、「人間ではない」「魂がない」という判定を受けます。
※実際、日本人は「エコノミック・アニマル」「イエロー・モンキー」と揶揄されてきた歴史があります。
※日本への二発もの市民への原爆投下に対して、当時は大きな国際的非難はほとんど起こりませんでした(もし同じ白人国家でキリスト教国であるドイツへの投下であれば、強い非難が巻き起こっただろうという指摘もあります)。
※京都と奈良は仏教のお寺や文化遺産が多数あったため爆撃目標から外された。
※戦後約50年を経て、米ソ冷戦の終結を背景に「ジェノサイド」「戦争犯罪」とする批判が本格的に広がるようになりました。
「空の袋は立たず」です。
もう、いい加減にこうしたことに気づいてもいいのではないでしょうか?本当に学力をつけてあげること。大人になっても困らないような、受験勉強による学習態度を身に付けてあげませんか?
受験を終わってから入学した生徒たちがベルトコンベアで運ばれてきたものだから、非認知能力がまったく育っていないのだと、難関中学からの指摘があります。実際、中高の先生たちが、頭を抱えているのです。「この子たちを6年間でどうしてあげたらよいのだろう」と・・・
目先の合格だけでなく、本当に子どもたちが、合格してからも困らないようにしてあげませんか?